ヴィブラムの本社で見たテストの光景は圧巻。 売る立場でも安心を感じるソールです。
デザイナー自身のカラーがその靴、そして服に出てくるデザイナーがいます。本当の意味での「個性」を感じるものづくりを続ける三原康裕さんもそのひとり。「個性」をシューズや服にダイレクトに表現することは簡単なようで、実は非常に高度な才能だと思います。三原さんのクリエイティブの原点でもある、「靴づくり」にとって、靴底である「ヴィブラム」はどんな役割を持ち、どんな付き合い方をしてきたのでしょうか? その深さが言葉の中から滲み出してくるような注目のインタビュー第1回目。
「Maison MIHARA YASUHIRO」のデザイナー・三原康裕さん。世界中に多くのファンを持ち、今もアグレッシブに、かつ常に新しいクリエーションをシューズに、服に、はたまたカルチャーにと、表現をしている。今回のインタビューはその足元の、まさに「足元の中の足元」の部分、「ソール」に関して伺うという極めてレアなインタビュー、中でも「ヴィブラム」のお話しを伺うことができました。
−− 三原さんとヴィブラムとは長い付き合いなのだと思いますが、最初はどんな感じだったのですか?
三原康裕さん(以下「三原」と略す) 最初は間違いと言いますか、似ているものをヴィブラムだと思い込んでいたという感じですかね。
−− 若い頃ですね?
三原 中学からパンクだったのですが、お金がないから、日曜大工の店とかで安全靴を見つけて、履いていたのです。そのうちにパンクショップに行くようになるとドクターマーチンやイギリス系の安全靴があったりするわけです。それでソールが違うのがわかってきました。グッドイヤーウェルト製法でつくるゴツいブーツがあったりしたわけです。ゲッタグリップとかソールのゴツさが格好いいと思いました。小石が溝に挟まりそうなくらい靴に厚みがありましたね。あるときアメカジ(アメリカンカジュアルの略)の流行が入ってくるわけです。ぼくらのファッションに。エンジニアブーツとか、履くわけです。アメカジって、みんな“本物”が大事で、アメカジ仲間の中で偽物を履くとバカにされました。本物に出会うと、ものに対する目も厳しくなるわけです。そこで目に入ったのが<ヴィブラム>でした。
−− パンクからアメカジへの移行が<ヴィブラム>との出会いだったわけですね。
三原 そう。伝説というのかな、ヴィブラムは本物って思いましたね。黄色い八角形のロゴが本物の印みたいな。それを見ると「本物だから安心」って思いましたからね。そのころから靴底を貼り替えるようになりました。溝の深さに8mm、6mmとか他にも4mmとか薄いのもあるのですが、ぼくはとにかくゴツい、ゴツいのって言っていましたね。ただ、貼り替えのときに出しがかからないから大変だとかね、出しっていうのは出し縫いの部分のステッチダウン(アッパーの革を外側に向け、ソールと縫い付ける製法)のことで、マッケイ製法でやるのも限界で、なんちゃってセメントになっちゃう(笑)。うまく削り出して、貼り替えてもらっていました。当時の福岡は靴がおしゃれの基本でした。貼り替えもブランドやファッションの方向性によって専門の人がいて、綺麗すぎず、ちゃんと仕上げてくれましたね。
−− 福岡時代ということは、まだ靴のデザインをしていなかったのですか?
三原 そうです。今思えば、当時から靴は好きでしたって感じですね。安全靴を履くようになって、それから本物を知るようになり、ヴィブラムに出会いながら、靴の構造とか見ながら研究していたって、今さらながら気づきました。音楽シーンでいろいろ知っていくわけです。24ホールのブーツとかね。日本には24ホールのブーツなんてなかったですから。そうこうしているうちにイギリスの輸入物を扱う、福岡の「ブラック」ってパンクショップに行ったら、見たこともないものを見たり、「はちや」というロカビリーとかパンクとかの店があって、靴の揃いがすごかった! そこで勉強していたのでしょうね。いつの間にか身につくというか。
−− そうこうしているうちに、靴づくりを始めていくのですね。靴をつくり始めてからヴィブラムとの付き合い方は変わりましたか?
三原 駆け出しのころ、まだその歴史を知らなかったので、何故本物か、ということを知りませんでした。後になってわかって、感動した覚えがあります。自分のつくる靴の靴底をヴィブラムでやりたかったという思いはありました。ヴィブラムを使ってはいましたが、グッドイヤーウェルト製法でピースの出しをかけるところも無理矢理縫ってくれるところがあって、やってもらっていましたね。ホリの深いのとかやっていましたよ。当時は溝の深いものをやりたくても、L字ピースとかの独特なピースがありません。ピースとか材料が揃っている工場が少なかったのです。ナンポウ(「南方」と書くことも。革の粉末を接着剤で固めた、革に比べ軽い素材。踵の厚みを積み上げるときなどに使う)はありましたが、レザーのピースからやってくれるところが少なかったのです。探して、ピースとかの材料、中板も含め浅草でそれをやってくれるところを見つけて、そこでやってもらっていましたね。そんな思い出があります。あのころはガムシャラにできたのだなぁ、と今は思います。そのころ、博多時代にも好きだった8mmの深い溝のソールで靴をつくりたくて探したのですが、当時、日本の市場にはありませんでした。それで当時の担当の方に頼んだら、イタリアには古い型がきちんと残っていて、それで焼いてくれました(ソールをつくってもらうことを、ゴムを焼くことから「焼く」といいます)。昔ながらの登山靴のソールというヴィブラムの伝統的なスタイルだけではなく、最近ではスニーカー底にも力を入れていて、ソールの専門としての幅を広げています。そこにはイノベーションと起源というかオリジンが共存していると感じましたね。
三原康裕さんのインタビュー第1回はヴィブラムとの出会い、シューズデザイナーとしてスタートしたころの話を伺ってきました。ヴィブラムソールの安心感を感じているという三原さんの話。第2回は実際にデザインをする立場からのヴィブラムとの付き合いを伺います。
三原康裕(みはらやすひろ)Maison MIHARA YASUHIRO シューズデザイナー
1972年 福岡出身。多摩美術大学美術学部デザイン学科テキスタイル専攻で学び、靴のデザインを始める。大学在学中に独学で最初の靴を作り、1996年 自身のレーベル 「MIHARAYASUHIRO」を立ち上げる。1999年 現在の(株)SOSUの前身、(有)SOSUを設立。2004年 ミラノコレクションに初参加。2007年 パリコレクションに参加。2016年 ブランド名を「MIHARAYASUHIRO」から「Maison MIHARA YASUHRO」に変更。2020年 「General Scale」 という環境的責任を掲げたラインをローンチ。2021年 ショップ併設のギャラリースペース「#無責任画廊」始動。2022年 9月より1年間、(株)ソスウが「日本橋アナーキー文化センター」を運営。
Text by 北原 徹
Photo by 北原 徹