1928年、北イタリアに創業したスポルティバ。アルパインブーツからクライミングシューズまであらゆる“山靴”を製造し、世界中のプロフェッショナルから厚い支持を得ている老舗シューズブランド。その製品の多くには、ヴィブラムのソールが使用されています。
右が代表取締役の佐藤義朗さん。左の長崎誠さんがマーケティングおよびブランディングを担当。
右が代表取締役の佐藤義朗さん。左の長崎誠さんがマーケティングおよびブランディングを担当。
日本総代理店の「日本用品株式会社 スポルティバ ジャパンディビジョン」(以下、スポルティバ ジャパン)の佐藤義朗さんと長崎誠さんを訪ね、その歴史や製品作りについてお話を伺いました。
−− スポルティバとはどういうブランドなのか、その歴史や製品について改めて教えてください。
長崎 ドロミテ山麓のヴァル・ディ・フィエンメ(以下、フィエンメ)という街で創業したシューズブランドです。登山、クライミング、マウンテンランニング(トレイルランニング)の3つのカテゴリーのシューズを開発、製造しています。
佐藤 フィエンメは、ミラノから東へ300kmほど離れた山間の街です。北イタリアのドイツ語圏に属している街なので、南の、地中海のイメージとはずいぶん印象が違います。
長崎 ヴァルが谷という意味なので、直訳すると「フィエンメ谷」。両側に山が迫る、まさに谷底にある街ですね。
−− スポルティバは、日本では「プロフェッショナル向けの登山靴」というイメージがあります。本国イタリアではどのような位置付けのブランドなのでしょう?
佐藤 まさに日本と同じく、プロ用の登山靴というイメージです。イタリアではもちろん、ヨーロッパ全土において、ハイレベルな靴を作るブランドとして認知されていると思います。
佐藤義朗さんは、創業者の佐藤友美さんの孫。現在3代目となる代表取締役を務めている。
長崎 オートメーションの工程と、職人の手による工程の両方を経てシューズを製造しています。例えばソールのエッジの処理や張り合わせなどは、職人が手作業で行っています。
佐藤 会社自体はいい意味で、昔ながらのファミリーカンパニー。近年少しずつ規模が拡大しており、本国の従業員は現在500名弱です。フィエンメは小さい街で、いわば“スポルティバの街”なんですよね。誰もが顔見知りで、子供の頃から知っているという関係。3代続けてスポルティバで働いている、なんて話もよく聞きます。
一方で地元採用ではない、例えばヘッドハンティングといったケースも増えてきています。また去年からCSRを担当するマネージャーの女性が入社しました。現在では男性よりも女性のほうが従業員数が多くなっています。
−− スポルティバジャパンの親会社である日本用品株式会社により、1969年に日本での販売がスタートしました。その経緯を教えていただけますか。
佐藤 私は生まれていなかったので、先代と先々代、つまり父と祖父から聞いた話になるのですが……ケルンのアウトドア見本市で、スポルティバの製品を見たことがきっかけです。当時我々は秋葉原に「ニッピン」というアウトドア専門店を構えていました。つまり買い付けのために、海外の見本市を訪れていたんです。
スポルティバをひと目見て、デザイン性の高さに惹かれたと聞いています。当時の一般的な登山靴とは一線を画す新しさがあったんですね。ソールとアッパーの圧着技術も最先端のものだったそうです。
−− 以来、実に半世紀以上にわたるパートナーシップが継続しています。その理由は何だと思いますか。
佐藤 現在、世界各国にスポルティバのディストリビューターがあります。その中で最も古くから契約を続けている国のひとつが、日本なんです。
長く続いている理由は2つあると思います。ひとつは、スポルティバと日本用品株式会社という2つの組織の価値観がマッチしていたこと。
もうひとつは人と人とのつながりです。スポルティバの今の社長と、日本用品の先代の私の父が同年代。そして社長の娘が私と同い年で、息子が私の妹と同い年(笑)。私たち兄妹も小さい頃からイタリアに行く機会があり、家族ぐるみのお付き合いをしてきたというのも、大きな理由だと思います。
近年は、社員にも積極的にイタリアでのミーティングに参加してもらっています。我々家族だけでなく、社員にも同じように本国とのつながりを持ってもらいたいと思っています。
スポルティバ ジャパン
1951年、日本用品株式会社創業。東京・秋葉原にアウトドア用品専門店「ニッピン」を開業する。1969年にスポルティバとのパートナーシップがスタート。2013年に関連会社としてスポルティバ ジャパンが設立し、現在は再び日本用品と吸収合併を果たして新しいスタートを切っている。
Text by 加瀬友重
Photo by 前田一樹