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はじめて靴底を意識したのは大学のときだ。

山と溪谷 編集長
五十嵐 雅人
Aug 30, 2023
はじめて靴底を意識したのは大学のときだ。
大学で山岳部に入部した私は、それまで部活というものに馴染めず、あっという間に辞めてしまうことを繰り返していたにも関わらず、谷川岳の雪上訓練、三ツ峠の登攀訓練を経て、北アルプスの剱岳を舞台に行われる夏合宿を迎えようとしていた。
夏合宿は前半が登攀、後半が縦走で、合計2週間ほど山に入ることになる。それなりの登山装備が必要になるが、金のない学生のこと、命に関わるから絶対に買えと言われて買ったウールの下着でほとんどの金を使い果たし、バックパックとレインウェアは先輩のお下がりを格安で譲り受けたら、それでおしまいになった。登山靴なんていの一番に買わなければならない装備のはずなのに、夏まで借り物やスニーカーで間に合わせていたのは、どうせまた辞めることになるだろうと、どこかで思っていたのかもしれない。とにかく登山靴を手に入れなければならない私は、部室の本棚の上に飾られていた、いつのものだかわからない、ホコリだらけの革製登山靴に手を伸ばしたのだった。ベロのところにはマジックで兵力と書かれていた。
夏の剱岳はすばらしかった。高所特有のくっきりとした青空の下に、ハイマツの緑と、真っ白な雪渓と、硬く屹立するグレーの岩峰とが一枚の絵のように配置されていて、特別に作られた舞台装置のなかに放り込まれた気分だった。
別山乗越から剱沢を下降していく。はじめて雪渓の上に足を置いたときの感覚は忘れられない。おっかなびっくり体重をかけてもびくともせず、つるんと滑ることもないことがわかると、踊るようにして駆け下った。雪渓のどんづまりにある真砂沢のテント場に着くと、ハイカーよりもクライマーが多い場所柄か、一種異様な雰囲気が漂っていたことを覚えている。雪上に立つテント脇にピッケルやバイル、アイゼンが突き刺さっているのを見て、いよいよはじまるなと気合いが入った。
登攀初日は剱岳の源次郎尾根であった。厚く暗い雲が垂れ込める空の下、雪渓を登り返し、平蔵谷から源次郎尾根の末端に取り付いた。先輩がザイルを引いて上部で支点を作ると、そのザイルにカラビナを通して後続が登って行く。傾斜はあるが難しくはなさそうだ。まず大丈夫だろうと言い聞かす。私の番になり「登ります!」と声をかけて岩に足をかけた。数歩進んで下を見た途端、高度感に足がすくんだ。膝ががくっと落ちてずるずると滑りはじめ、とっさに岩にへばりつき、そのまま動けなくなる。「立て!」と先輩が叫ぶが、立てない。「大丈夫だ! グリップを効かせれば滑らない!」と言われても、無理だ。怖いのである。ぽつりと雨粒が落ちる。ここから滑り落ちるとシュルンド(岩と雪渓の隙間)のあのあたりにすっぽりはまるなと、頭の片隅で考える。本格的に雨が降り始めて、みんながレインウェアを着はじめる。私はぬれるがままだ。しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。靴底を岩場にフラットに置けばグリップすると先輩は言う。靴底を信じて体重を預ければいいと言う。ええいままよと意を決して体を起こす。立ってしまえばなんということはない、私の体は滑り落ちていくこともなく、岩に打たれた杭のように、しっかりとその場に留まっているのだった。
その夜、無様な姿を見せた私に先輩は、これはそんじょそこらの靴底ではない、ヴィブラムだからさ、信じて大丈夫なんだと、酒を片手に遅くまではげましてくれた。
世界ではじめて登山靴にゴム製の靴底を採用したのがヴィブラムだということは、あとで知った。同社の創立が1937年、靴の持ち主である渡辺兵力氏の生年が1914年だから、氏は学生時代に最先端の登山靴を入手したことになる。私がそれを借用したのが1993年。半世紀以上の時を経てもなお、ヴィブラムは高いグリップ力を発揮してくれた。
さらに時は経ち、あれから30年という年月が流れたが、恐怖心というものは風化しない。私はいまも岩登りが苦手だ。
五十嵐 雅人 山と溪谷 編集長